今回はどんな人?
今回はなんと、明治大学元理事の青柳勝栄さんにインタビューしました!!
✅英語を勉強する素晴らしさが分かる!
✅国際社会に目を向けたくなる!
✅何かに取り組みたくなる!
青柳勝栄さんとは?
✅1942年生まれ、茨城県出身
✅明治大学経営学部卒業
✅元明治大学理事!
✅株式会社理経社長
✅連合駿台会 副会長
✅国際大学理事 etc…
すごい肩書ばっかりだ…
でも、連合駿台会?株式会社理経?
連合駿台会は、1953年(昭和28年)5月、明治大学OBの経済人の集いとして設立された「茗水クラブ」と、政財界、学会などで活躍しているOBが集い、日本を代表する大学づくりを目指して1964(昭和39年)年12月に結成された「明友クラブ」が、2002(平成14年)年7月に統合して設立された団体。
引用:連合駿台会
東証二部上場。
世界中にある最先端のシステムをいち早く見出し、顧客のニーズに合わせて最適なソリューションを提供している会社。
「システムソリューション」「ネットワークソリューション」「電子部品及び機器の輸出入」の事業を行っている。
参考:株式会社理経
え、連合駿台会も理経もどっちもすごいところじゃん…
ところで、国際大学って…?
国際大学(IUJ)は、新潟浦佐市にある大学院。
世界が直面する様々なグローバルな問題の実践的解決に貢献できるリーダーを育成し、グローバルな公共の利益に貢献することを使命としている。
特徴として、全て英語で授業が行われており、世界中の学生が集まる。
アジアで英国のエコノミック誌で一番になったこともある。
参考:https://www.iuj.ac.jp/jp/about/
ちなみに肩書は役職含めてあと20個以上あります。
いったいどんな人なんだ…
英語と出会い、人生が大きく変わった青柳さん
大学入学まで
本日はよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いいたします。
実は私はもともと、昼は石川島工業高校、夜は都立九段高校に通っており、大学進学なんて全く考えていませんでした。
え?そうなんですか?
というか、昼も夜も高校に通ってもよかったのですか?
本当はダメなんですけど、もう50年くらい前の話だから時効かなって(笑)
また、石川島高校の方は四年制の実業高校で、週三回は現場に出て働いていたので、本当に大学進学は頭にありませんでした。
なるほど(笑)
では、なぜ大学に進もうと思ったのですか?
当時の冬くらいに、岡野さんという二個上の先輩と勉強していた時、
「英語がいくらできたって、大学に進学しないと意味がない」
といわれて…(笑)
また、四年制高校なのもあって、周りより一年遅れていたんですよ。
そこから、浪人して就職…となると、みんなより2年も遅れるわけで。
2年遅れてもそこまでの遅れとは感じないのですが…
当時、浪人って本当に珍しかったんですよ。
大学進学率もそこまで高くない時代ですし。
それこそ、本当に東大目指してる人ぐらいしていませんでしたね。
なるほど…
そして、ICUの女性の先輩に文字通り、首根っこ掴まれて、経営学部を受験させられ、結果的に進学することになりました。
そうだったのですね…!
しかし、最初は大学進学に興味なかったのは意外ですね…
理事をやられていましたから、首席合格とかで入学したのかと思っていました。
そんな華々しいものなんてないですよ(笑)
むしろ、入学しても単位とかゼミって言葉が嫌いだったので、学業には全然力を入れていませんでした。
✅もともとは大学進学を考えていなかった!
✅大学進学のきっかけは英語部の先輩の言葉から!
大学入学後
実は最初は大学進学など全く考えていなかった青柳さん。
それでは、大学進学後、何をされていたのでしょうか?
学生時代の青柳さんに迫ります!!
それでは大学で何をされていたのですか?
英語部に入部して、ひたすら英語をやっていました。
英語に関してはかなりの自信があって、二年生のときに部長を任されるほどでした。
当時、英語の実力に関しては日本一だと思っていました(笑)
二年生で部長を任されるなんてすごいですね!
どんな勉強をなされていたのですか?
山手線や中央線に乗って、英語の洋書をずっと音読していました。
え?電車内でですか?
はい。
山手線はずっとぐるぐる回るじゃないですか?
それを利用して、大学の講義にもでないで英語の勉強をしていました。
あと、中央線は夜に暖房が効いていたので勉強するには最適な場所でした。
斬新な勉強方法ですね…
周りの目とか気にならなかったのですか?
全然気になりませんでした。
当時はとにかくもっと英語を上達させたいという気持ちでいっぱいだったので全く気になりませんでしたね。
そうなんですね!
やっぱり気持ちがないと続かないですよね…
✅ひたすら英語に没頭!
✅電車で英語の音読をしながら、勉強!
✅2年生で英語部の部長に!
在学中の渡米
そんな風に大学を過ごしていた時、当時大学2年生だった青柳さんに人生を大きく変える転機が訪れました。
当時、敗戦後の日本が万国博覧会のために特別に用意した飛行機に乗って渡米するチャンスが降ってきたんです。
複数の国が参加した、公衆の教育を主たる目的とする催しであり、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。
引用:国際博覧会条約
またとないチャンスですね!
すぐに応募したのでしょうか?
当時からしたら、アメリカに行くことなんて月に行くのと同じくらい難しかったのですぐに応募しました(笑)
そしたら、なんとか合格したみたいで
すごいですね…
実際にアメリカで何をされていたんですか?
日本のことを話しましたね。
現地の大学生とかに、
「日本って北京から電車でどのくらいの時間にあるんだ?」
って聞かれて、「おいおい…」ってなることが多々ありました(笑)
そんな体験が…(笑)
そこでの一番の思い出って何でしょうか?
コーネルクラブの会長と知り合ったことですね
ニューヨーク市立図書館で勉強していたら、たまたまそこで会議を終えた会長が出てきて、
当時、日本人が珍しかったのか
「なんで日本人がここで勉強しているんだい?」
と声をかけられて。
アメリカに来てまで勉強している私に興味を持ってくれて、
「将来、何をしたいんだい?」
と質問してくれて。
ただ、その時の私はやりたいことなんか何も決めていなかったため、
咄嗟に「ホテルマンになりたい!」
と言ったんです。
咄嗟に出てくるのもすごいですが、なぜホテルマンなんですか?(笑)
ただただかっこいいと思っていたからです(笑)
なるほど(笑)
ホテルマンになりたいことを伝えたらどうなったのでしょうか?
驚くことに、コーネル大学に対して、面接のアポイントを取ってくれました。
コーネル大学はアイビー・リーグを構成する米国の最難関大学の一つで全米屈指の名門校として知られる。また世界における大学ランキングでは5位にランクしている。アイビー・リーグで唯一、ホテル経営学部があり、Hotel School of Administrationは世界のトップ1。
コーネルクラブはコーネル大学の卒業生と教職員、およびクラブの関連学校の卒業生などに限られ、様々な特典を得られるという。
ええ!?
それはすごいですね!
入学できたのですか?
できませんでした。
今は違うんですが、当時のコーネル大学って
大きなホテルのオーナーの息子とかじゃな入学できない所で
茨城の農家出身の私では大学側から断られましたね。
それは残念でしたね…
でも、大学4年生の時に大学側から入学してくれって連絡が来ました。
結果的には入学はしませんでしたが
向こうから入学してくれって連絡が来るのはすごいですね…!
結果的には渡米はどうでしたか?
非常に素晴らしいものでしたね。
今後、日本がどのように歩んでいけばいいのか、何をすべきなのかなどを学べました。
帰国後の3年生の時に、現在は顧問を務めている「日米学生会議」に参加し、第17回の委員長を務めたりもしていました。
日米学生会議(Japan-America Student Conference-JASC)は、日本初の国際的な学生交流団体です。米国の対日感情の改善、日米相互の信頼回復を目指し、「世界の平和は太平洋にあり、太平洋の平和は日米間の平和にある。その一翼を学生も担うべきである」という理念の下、1934年に発足しました。
引用:日米学生会議同窓会
✅大学2年時に渡米!!
✅その時にコーネルクラブの会長と知り合う!!
✅帰国後、日米学生会議の委員長に就任!
この後、誰も想像していなかったある選択肢を取る青柳さん。
次のページでは、
学生時代、戦後初の渡米をし、貴重な経験を多く得て、グローバルな人材待ったなしの青柳さんが
誰も想像していなかったまさかの選択を取ることになります…
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